第二計 魏を囲んで趙を救う
「敵を共にするは敵を分かつに如かず、敵の陽なるは敵の陰なるに如かず」「魏を囲んで趙を救う」というのは、敵軍が主力を集中して隣国に進攻し、双方が退治して激戦を展開している機に乗じて、敵国の本土の要害の地を急襲し、敵軍が進攻を中止してあたふたと救援に向かうように仕向け、その機に乗じて途中で待ち伏せ攻撃して殲滅する戦略である。
時代背景
魏と趙はともに、もとは晋の権臣であった。
前四五三年、晋は韓氏、魏氏、趙氏によって分割され、三氏は独立国となって韓は山西東部を領有して首都を平陽に構え、魏は山西南部から河南北部を領有して首都を当初安邑、のち大梁、現在の開封におき、趙は山西より河北を領有して首都を当初晋陽、のち邯鄲に置いた。
この三氏は三東の斉(首都は薊、現在の北京)、陝西から甘粛に及ぶ秦(首都は擁、のちに咸陽)、湖北から湖南、江西、安徽北部に及ぶ楚(首都は鄢郢、現在の宜城県)とともに戦国の七雄と呼ばれて抗争を繰り返していた。
斉の軍師「孫臏」の大梁攻撃
--- 戦理 解説 ---
戦史・桂陵の戦い(紀元前353年)である。 ①~② 「魏」に攻め込まれた「趙」は「斉」に救援を求めた。 「斉」の威王は孫臏を将軍にしようとしたが、孫臏は刑余を理由に辞退。田忌を将軍とし孫臏はその軍師としてし輜重車の中で籌策を運らすことになる。田忌将軍は兵を率いて直接「趙」に赴こうとした。しかし、その時の軍師・孫臏の状況判断が「囲魏救趙の計」である。孫臏曰く「糸のもつれを解く者は拳で叩いたり、むやみに引っぱたりせず。喧嘩の助太刀をする者はやみくもに殴り合いに加わってはいけません。相手の「虚」をついてこそ、自然に形勢が有利になるものです。今、「魏」は「趙」との戦いに全力を尽くしており、精鋭の兵卒は国外に出尽くし、国内には老弱の兵のみが残っていることでしょう。将軍(田忌)は兵を率いて、「魏」の都の大梁に急行し、街路に布陣して「魏」の「虚」を衝くべきです。そうすれば、「魏」は必ず自衛を講ずるため、「趙」を放棄して、自国に兵を返してくるでしょう。それを我に有利な地形で待ち受けて魏軍を一気に撃破すべきです。これが我が一挙を以て、「趙」の包囲を解き、「魏」を疲弊させる方策であります。」