第十七計 磚を抛げて玉を引く
「類を以て之を誘い、蒙を撃つ」 「磚(かわら)を抛げて玉を引く」というのは、偽りの状況を設定し、敵軍を罠にかけて勝利を勝ち取る計略である。」
時代背景
唐朝の六九〇年といえば、「武韋の禍」といわれる社会不安が起き、治安が乱れた時期である。すなわち三代高宗のころより均田農民が流亡して社会不安が増し、他方では新地主、商人が擡頭して来たかれらは門閥貴族が独占していた政権に参加しようとして、高宗の皇后・則天武后および四代中宗の皇后・韋后と結託したものだ。蛮族の契丹人が唐朝の営州に侵入してきたのは、この唐朝の混乱に乗じたものだ。契丹人は五世紀以後、満州(現・中国東北部)の熱河、遼河の上流にあらわれた遊牧狩猟民族である。このとき彼らは遼寧省南部に進攻し、営州奪回にきた唐軍を本計を使って撃滅したのである。
孫万栄、食糧不足とみせかけて唐の軍勢を撃つ
類似の事物で敵軍を惑わせて罠にかけ、混乱に陥れ、その機に乗じて打ち破る。