兵法三十六計の「かたち」
兵書としての「三十六計」は、詭道・詐術を中心とした「虚実の理念」が簡明に記載されているが「孫子」「呉子」等の武経七書にみられるような「作戦」や「戦闘」を実際に運用展開するための「指揮・統率」に関する記述は無い。「戦国策」や「鬼谷子」と同じように「戦い」を個人の武力行使及びその武力を組織化された軍隊のみが行なうものとは捉えていないからである。「孫子」は謀攻篇の中で、「百戦百勝は善の善なるものに非ず、戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。上兵は謀を伐つ、その次は交を伐つ、その次は兵を伐つ、その下は城を攻む。」と言っている。著名な極意「戦わずして勝つ」の語源であるが「孫子」は戦わずして人の兵を屈する方法、敵の謀(はかりごと)を伐つ術、交(外交や同盟)を伐つ具体的な手立てまでは示していない。故に「孫子の兵法」は戦場での駆け引き(正奇・虚実)と捉えられがちである。一方、「戦国策」の英雄知略の豪傑は身に寸鉄を帯びず一人で敵陣、敵国に赴き見事に「調略」を成功させるのである。「鬼谷子」(対人兵法)の極意を用いて「連衡・合従」を演出する「蘇秦」や「張儀」は戦場の英雄ではない。この三十六個の策略を演出する名将たちも同様に戦場だけの英雄ではない。
目的・目標と戦略・戦術
「目的や目標」を達成するためにその戦場およびその限られた時間の中で「戦闘(戦い)」を想定して計画したものが「作戦」であり。作戦の中で実行される個々の「戦闘」の理念(戦い方・勝ち方)が「戦術」である。「作戦」の中の個々の「戦闘の効果」を作戦目標に帰納させる理念が「戦略」である。さらに軍事的な「作戦」を相互に支援する効果が「外交・謀略・諜報」である。「軍事」を主とする作戦・外交・謀略・諜報・等々および「政治」を主とする資源・生産・貿易・等々内政・外政の総力を用いて国家の目的と安全を達成しようとするものが「国家戦略」(政治・外交・軍事・内政)である。「兵法三十六計」はそれら「作戦」「戦闘」「外交」「謀略」「政略」等のすべての情勢・状況に応じて難局を打開する「打つ手」と「理念」を同時に著した特異の兵法書である。
Doctorine「ドクトリン」と Principle「プリンシプル」
無限に変化する情勢・状況の中で我が目的・目標を達するための具体的な手立て「打つ手」はその時々の時勢と地勢と民性等に沿って導き出されるその国家特有のDoctorine「ドクトリン」(方針・教義)でもある。(海洋国家は海洋事情に適した方針を建てる)一方、「理念」は地勢(国家)や時勢(時代)に囚われない普遍的な Principle「プリンシプル」(原理・原則)に基づいた考え方である。たとえ情勢・状況に応じて権威を帯びた「ドクトリン」(国防方針)であっても普遍的な「プリンシプル」(原理・原則)に反れた者は情け容赦無くその「プリンシプル」(原理・原則)に呑み込まれて行く。極東のわずかな小島の国土(地勢)で産業資源に乏しい国家が西洋列強に恐れ倣い憂国のエリートたちが見出した最善の方針「ドクトリン」は筆舌に尽くしがたい最悪の結果に終った。その軍事ドクトリンの真っ只中で三回の貫通銃創を受けながらもその天命に従って戦後の国防と兵学に貢献された武岡先生は「日本陸軍史百題」の中で「日本陸軍の戦争研究はアカデミックでなかった」と云われている。「孫子」は謀攻篇で勝を知る五つの中のひとつに「衆寡の用を識る者は勝つ」と云っている。漢の名将「韓信」は劉邦に力量を問われて「臣多々益々弁ず(兵力は多ければ多いほど可能)」と答えたと云う。孫子の云う「衆」と「寡」の両方の運用こそ「プリンシプル」(原理・原則)である。一般に強者(衆)の戦略、弱者(寡)の戦略と言われても現実は不利な状況(国力、資源、資金、戦力等の不足)の中で戦いを強いられる。従って自らの手立て(方針)に極端な弱者の戦略に拘泥してしまう。または自らの兵力(衆)を過信して統率を失い「虚」に陥る。武岡先生は「優勝劣敗の原理」に逆らって勝を求めようとする弱者にこそ戦略が求められると言われるが同時に強者にも戦略が必要(存在する)で「戦略の本質」を明らかにすべきであると云われた。 かつて、大橋先生の「兵法経営塾」や先生の告別式でもお目にかかった元大本営参謀で戦後の政財界にも大きな影響を与えた方が「日本の進路」という著名な講演の中で見事に当時の日本の情勢、状況を簡明に示されたことを鮮明に記憶している。まだ日米経済摩擦云々でバブル崩壊前であったが当時の戦後復興の勢いは「資源の無い工業国家」として、その特質に沿った国家戦略(日本の進路)を示された。優れた資質(ハード)と教育(インプット)から導き出された答え(アウトプット)手立・方針であってもその過程の演算アルゴリズムに普遍性が欠けていればその答えも必ず歪む。あれから40年、「政治」も「経済」も「教育」も依然として資源(食料も)の無い極東の小島でひたすら目前の課題解決「最善のドクトリン」に翻弄されてきた。その結果がコロナ禍、ウクライナ戦争で更に顕在化した。「着眼大局、着手小局」が元大本営参謀の教訓で大橋先生は「目的を決めずに状況判断をすれば逆の答えが出る」と戒められたが、2023年の日本はまたしても「大局」と「 Principle・プリンシプル」を見失って既に「逆の答え」に陥っている。戦後生まれの我々世代が国家の重要な責任を負う時代であるが、今日の日本の内外の情勢を見れば60年以上見て来たものから殆ど何も得ていないのではないかと感じる。いかなる地位も権威も時代の毀誉褒貶にさらされるが歴史の評価を待つまでもなく昨日と今日の現実が既に結果を問われるべき歴史なのである。 「兵法」は情け容赦なく「結果」を求める手立てである。兵法としての三十六計の「かたち」は現実の課題解決のための「三十六象の状況」とそのための「打つ手」三十六卦の「理念」(原理・原則)が手立てとして著されている。人類は、より簡明な究極の原理・原則を求めて八十二篇から三十六篇、十三篇、九原則、六袋、二法則、正奇、虚実、生死、陰陽(bit)と「真理」を顕在化して来た。一見無限の変化を見せる目の前の敵を退け課題(目標)を克服するためには如何にその状況に適応した「打つ手」を選択するかにある。しかし相手(敵)と自分の間で自らの選択肢が限られて来るのが現実である。故に自らの手立てが効果的に打てるような状況を作り出すために相手の判断を狂わせるための手立ても「詭」であるが、自らの限られる選択肢(戦力不足等)は既に「虚」である。自らの「虚」を意志の自由を持つ相手に「詭」を施して自らの戦力を補うような戦い方は戦略では無い。自らの優れた特質で戦いの主動を持たせることは有っても劣った特質を補うような極端な国防方針「ドクトリン」は既に失敗である。「詭道」とは敵を欺いて敵の判断を誤らせることであるが、詭を施すのも奇を用いるのも敵の「虚」を作り出す局所的な「戦術的手立て」であり自ら主動的に相対的な虚実を創造することである。しかし詭は敵の戦力を低下させることはあっても自らの戦力を直接向上させることは無い。詭によって生じる敵の一時的な「虚」を速やかに捉えて打つ自らの「実」が必要である。
「混水摸魚」と「連環計」
「大橋武夫先生」は三十六計はいずれも奇策、妙策ではあるが、他面ことごとく「児戯に類するもの」で冷静で英知の相手「敵」に施せば逆にこちらがしてやられそうなものばかりであると云われた。かつて、この件に関して「武岡淳彦先生」と話をしたことがあった。大橋先生がそれぞれの策を施す前に「混水摸魚」で敵の心理を攪乱してその判断力を弱めておく必要があると云われたように「詭道」(偽り欺く)の本質と限界を示されている。「詭道」は敵の相対的戦力を一時的に弱めることはあっても絶対戦力を覆すエネルギーとはならない。孫子は形篇で「故に善く戦う者は、勝つ可からざるを為し能うも、敵をして勝つ可からしむる能はず」と云っている。武岡先生は「策は三策」が基本で、三国志の赤壁の戦いに見るように「連環計」とはただ偽って敵の船を繋げてしまうことでは無く、合従、反間、離間、苦肉、埋言、・・等々の様々な策の相乗効果が無ければ成立しないと云われた。この文章を読まれる方には限りがあり、また全く検索の対象にもならずに埋もれてしまうかも知れない。孫子の十三篇も各篇単独で孫子の兵学思想を読み解くことは出来ない。虚実、勢い、形、計、正、奇、詭道・・それぞれの理念が互いにどのように係わりどのような効果をもたらすのかを理解するには孫子だけを読んでも理解出来ない。同様にこの三十六計のそれぞれの奇策・妙策を現実社会で活用しようと目論む者も「詭道」と「三十六計」そのものを理解しておくべきである。さらに、三十六の「打つ手・戦理(理念)」をその「打つ時」「状況」「情勢」に適応させる事こそ兵法・三十六計の要(かなめ)であり最も難しいことである。人の「情」と「理」(利)を洞察できない者はただ己の策にのみ溺れて滅びる。
-- 2017・6・5 サイト主宰者 2022・11・18 追記 ・ 2023・04・20 追記 --