三十六計「詭 道」の集大成
「三十六計」は、著作年代も著者名も、今のところ推定の域を出ない。ただし、その一計である「三十六計、走ぐるを上となす」は、出所も史実もはっきりしている。すなわち、五世紀前半の武将、檀道済がこの計策を得意としていたということである。檀道済は、南朝宋(420~479年)の武帝劉裕の腹心で、開国の元勲である。三代目文帝の即位後、武陵郡公に封ぜられ、征南大将軍を拝命し、北魏を攻めて三十回余りの戦闘にすべて勝利を収めた。のち、糧秣が続かなくなったので、巧みに兵を退いた。対外的には北魏との戦争に明け暮れる一方、この時代、国内でも陰謀詭計による血なまぐさい事件が絶えなかった。南朝宋の創業者劉裕は、晋の恭帝に「禅譲」を迫り、新王朝を開いた。 践祚の翌年、その恭帝(零陵王)を毒殺した。三代目の文帝は兄二人を殺して即位した男である。これらの政変劇で陰謀詭計をほどこす役割をつとめたのが檀道済らの腹心グループであった。文帝の場合、口封じのため、兄二人を殺した罪を、これら腹心グループの何人かになすりつけて誅殺するほど奸計にたけていた。当時、檀道済は辛うじて身の安全を保つことができたが、それも束の間、結局、その威名と実力を恐れた文帝によって誅殺されてしまった。残念ながら、檀道済の伝記はこの程度しかわかっていないが、実戦経験に富み、政治的謀略にもたけた武将であったことが推察できる。原型ともいうべき「三十六計」の兵法はそのころ既に成立していたと思われる。兵法「三十六計」は六部に分かれ、優勢に処する計として勝戦、攻戦、併戦の三部と劣勢に処する計として敵戦、混戦、敗戦の三部に分かれている。この二種類の計は多くの兵家の、敵をくらます謀に属し、もし妥当な運用をすれば、弱を以て強を抵ぎ、劣勢を優勢へと転じることができる。してみれば、それは歴代兵家の「詭道」の集大成であるとも言える。
兵法「三十六計」の特徴 --①
■戦争には法則性がある故にその流れにしたがって追求すべきである。
■ 戦争の策略は、変幻自在で、意外な詐術、料りがたい陰謀にみちており、たやすくは掌握できない。
■ まず状況を察すべきこと。「疑いて実を叩き、察してのちに動く」必要がある。
■「心を攻め気を奪い」「その勢いを消す」方略の運用を重視すべきこと。
■ 方略の運用は「事理人情」に合致しなければならない。
■ 劣勢な条件のもとでは、断固として「走ぐるを上となす」策を採るべきこと。
以上の考えが、たんに戦争にとどまらず、広く人間社会の活動全般に応用可能であることはいうまでもない。またそのように応用してこそ現代的意義があるといえよう。
-- 大橋武夫先生解説・和田武司氏訳「秘本兵法・三十六計」(徳間書店1981年)より --
兵法「三十六計」の特徴 --②
「三十六計」は、各計の解題が半ば「易経」の言葉で構成されている。孫武・孫臏・韓信・李靖など、中国古代の軍事家で「易」の理に精通しないものはなく、みなこれを軍事に用いている。系統的に「易」を軍事演習に応用して著作にし、多くの弟子に伝授したのは明代の軍事理論家「趙本学」であるといわれている。「三十六計」の作者は、趙本学らの影響を深く受けたと思われる。「易」の陰陽の燮理(調和)を兵法の剛柔、奇正、進退、攻守の変化にあてはめた、素朴な弁証法がめだつ「易」は、一般に占いの原点として印象づけられているが、これは通俗観念であり、本質はまったく違う。「易」に示される吉・凶は、変えることのできない運勢判断ではなく、従うべき法則を示すことによって運命を主体的に切り開くことを促すものである。「禍を転じて福となす」のが「易」の道である。「易」の核心は、陽と陰(剛と柔、乾と坤)の対立という陰陽二元論である。あらゆる事物は孤立して存在するものではなく、必ず「対」になるものがあって、対立することによってはじめて変化が成立する。しかもこの両者は固定的・絶対的なものではなく、陰は陽に変じ、陽は陰に変ずるというように、つねに相互に転化する。また、陰陽は、相互に作用することによって新しいものを生み、発展させるものである。こうして陰陽は、互いに消長することによって循環し、互いに働きあうことによって新しい発展を生む。これが「易」における弁証法的認識である。
-- 大橋武夫先生解説・和田武司氏訳「秘本兵法・三十六計」(徳間書店1981年)より --
■引用・参考文献■
大橋武夫先生解説・和田武司氏訳「秘本兵法・三十六計」(徳間書店1981年)
武岡淳彦先生監修・解説「まんが・兵法三十六計」(集英社 1998年)
「兵法の原点」
兵法の原点は優勝劣敗である。このため双方の力関係が大きく開く場合には力で押さえればよいが、力関係が拮抗してくると相手の弱点を捕えなければ勝てない。 そこで相手に隙を出すよう仕向ける。あるいは相手の盲点を看破する、できれば錯覚を起こさせるのである。こうして現れた相手の弱点を虚という。この虚を衝くのを虚実兵法という。昔はこれを重視し、兵法は虚実に尽きるといわれた。だが相手もその点は百も承知で、策を仕掛けてくる。したがってその上をゆく計略でなければならない。そのためには相手の心理をよく読み、その裏をかく計略を考えることが必要である。
-- 武岡淳彦先生監修・解説「まんが・兵法三十六計」(集英社 1998年)より --
此れ兵法に在りただ諸君察せざるのみ
兵法は自然や戦史から帰納的に導き出された普遍的なものである。しかしそれらの兵書(文字)だけを繰り返し読んでもそこに書いてある 原理・原則の言葉から想像される「戦いの状況」は、それを読む人の経験や知識の内に止まってしまいやすい。まったく軍事の経験も知識もない者が軍事的教訓(兵書)だけをもとに「経済活動」や「社会生活」に何らかの効果を期待しようとしても自ずと限界がある。独りよがりの解釈だけでは「原理・原則(戦理)」の適用を誤りやすい。故に、それらの「原理・原則(戦理)」を「戦史」という実例を使って演繹的に検証して、まずその「適用方法」を学ぶ必要がある。後に防衛庁きっての戦略家として「幹部学校」や「幹部候補生学校」の校長を務められることになる陸将の武岡先生でも二十歳足らずで実弾の中をくぐり、貫通銃創を三度も受けられるほどの試練の中で、この原理・原則の適用に悩まれた。「背水の陣」「股くぐり」の故事で有名な国士無双・淮陰侯「韓信」が背水の陣を用いた「井陘の戦い」の敵将(趙王成安君)も韓信を迎え撃つにあたり孫子・謀攻篇の「十なれば則ち之を囲み、五なれば則ち之を攻め、倍なれば則ち之を分ち・・」の言葉を用いて状況判断を行っている。戦いが終った後、韓信の配下の諸将も孫子・行軍篇の「高きを右背に、死を前に生を後に(史記・山陵を右背に水沢を前、左にす)・・・」の言葉を用いて背水の陣の勝因を韓信に問うている。その問いに答えた言葉が「此れ兵法に在り、ただ諸君察せざるのみ・・・(孫子・九地篇)」である。「兵法」は知識と適用(運用)との「差」が勝敗、生死そのものである。(-- サイト主宰者 --)